8月12日(木)のゲストはNOMA(モデル/アーティスト)
次回のテーマは「海・微生物・緑・土・星・空・虹をめぐる "センス・オブ・ワンダー"」。自然の探求をライフワークとしてこれまで植物や宇宙、そしてカラス(!)の自然観察も行なってきた異能のモデル/アーティストのNOMA。ピクチャーブック『WE EARTH』(グラフィック社)が提示する「地球をまるごと感じる」とはいかに可能なのか──。科学の驚きと感性の喜びで応える "センス・オブ・ワンダー"の技法を訊く。詳細はこちら。
西洋では科学と宗教が長く対立してきたが、どうやらここに来て役割の逆転があったようだ。かつて、聖書に書かれた地球の誕生や天界における地球の位置づけなどにまつわる物語に疑問を呈す人々を非難し(ときには死に追いやり)、何もかも確かだと唱えるのは宗教指導者の役割だった。一方の科学者は探求者として、不都合な疑問に対する答えを求めた。
ところが現在では、科学のほうが確実性を約束し、リチャード・ドーキンスのようないわゆる「新無神論者」が宗教を信じる人々を、一見するだけで明らかなことさえ受け入れられない弱くて愚かな存在とみなすようになった。対照的に、組織的な宗教の信者たちは、科学者の引いたラインから外れているという理由で自分たちは迫害されていると考えるようになった。優位に立つ側は変わったかもしれないが、戦いは続いている。
NASAの地球生物学者にして聖職者
変化しながらも対立を続けるこの両陣営の橋渡しをしているのが、パメラ・コンラッド師だ。NASAの地球生物学者としてどのような環境が生命を維持できるかを研究しながら、ボルチモア郊外にある米国聖公会の教会では聖職者としても活動している。
2017年に聖職に就いたコンラッドは、NASAでは探査車パーサヴィアランスの火星ミッションを実行する科学者チームの一員として、火星環境の理解を深めるための実験を計画する任を負っている。その任務において特に重要なのが次の疑問だ。いま、火星に生命は存在するのだろうか? かつて、存在していたのだろか?
現在、コンラッドは同ミッションで2件の調査プロジェクトにかかわっている。ひとつは、一連の機器を使って地球の隣にある火星の天候を知り、それが生物にとってどれぐらい生存しやすい環境であるかを見極める調査。もうひとつは、ワトソンと呼ばれる特殊な顕微鏡と分光器を使って、火星に存在する有機物を特定および分析することを目的としている調査だ。
あるインタヴューでコンラッドは、自身のふたつの職業は、宇宙そのものと、宇宙の中における人間の立ち位置を理解するうえで、互いに補い合う関係にあると話している。「環境を知る目的で外を見るために使われる望遠鏡といった道具と、自分の内面に視線を向けることの違いは、『わたしは宇宙であり、わたしは宇宙の中に生きている』と言うのと似ている」と、彼女は語る。
わたしはコンラッドと、彼女の科学者としての仕事と聖職者としての信仰が、どのように互いにぶつかり合い、どのように互いを補い合うか話したことがある。以下は、その会話を簡潔にまとめたものだ。
── 科学者として、あなたは生命の化学を調査しています。そこに神秘的な、あるいはスピリチュアルな要素があるのでしょうか?
パメラ・コンラッド(以下:コンラッド):化学にスピリチュアルな要素を求めているのではありません。わたしにとって興味深いのは、すべてが同じものだ、という点です。元素の周期表は、宇宙のどこでも同じです。宇宙空間でも、地球にやってきた宇宙のサンプル、つまり隕石でも共通しています。この点は確かです。ですから、本当の疑問は、化学的性質が同じで物理作用が異なるのなら、いったい何が生命を維持できる環境とできない環境の違いを生んでいるのか、という問題です。
でも残念ながら、この問いに答えるのは簡単ではありません。わたしたちはいまのところまだ、地球に存在する生命というたったひとつの例しか、生命として認識していないからです。だからこう問うこともできます──わたしたちは生命を見たときに、それを生命として認識できるのだろうか?
── 科学と宗教、あなたが活動するどちらの分野でも、ほとんどの人はさらなる問いではなく、答えを求めているように思えます。
コンラッド:そのとおりです。わたしは完全に少数派のひとりだと認めます。わたしがふたつの分野を掛けもちしているのは、問いこそが何より大切だからです。科学は実験で得たデータを使ってはいますが、実際にやっているのはそれらデータを理解するためのモデルを構築することだという点を、わたしたちは忘れています。そして最高の科学者たちでさえ、ときにはお気に入りのモデルに固執しすぎてしまっています。本当に素晴らしい科学者はこう言います。「昨日のわたしはなんて愚かだったんだ。もちろんこうじゃない。今日はこうだ」
── 南極大陸への調査旅行が大きな転機になったそうですが、何があったのでしょうか?
コンラッド:国立科学財団が南極の生物学をテーマにしたコースを主催して、いまはそうでなくても将来いつか南極を調査したいと思うかもしれない学者を集めました。わたしはそれに参加したのです。
そのとき、わたしは神秘的な何かを感じたのですが、変人と思われることなしに、その感覚を言葉にするのは難しいのです。快適さのかけらもない厳しい環境に立っていると、生物として生き残るという大きな枠組みの中では、人生で負ってきた数々の傷や、あの人やこの人とのけんかなど、それまでの自分が抱えてきたものがとても小さく無意味に思えました。文字通り、一瞬でどうでもよくなったのです。
わたしがそれまでずっと抱えてきた疑問が全て解消した、というわけではありません。しかし、わたし自身の人間としての価値や宇宙での位置づけという点に関して、思い上がるなと言われたような気になりました。自分は大きな機械の小さな歯車なのかもしれない、あるいはもう少し文学的に表現すると、存在する全ての砂の中のたった1粒に過ぎないと思ったのです。
── もし、火星で生命が見つかったら、それはあなたの信仰にとって何を意味するのでしょうか?
コンラッド:簡単に言えば、何も意味しません。多くの人が、神は本当に偉大で、普遍で、万能であると考えていますが、それと同時に、わたしたちこそが創造の頂点だという考え方もあります。どの信仰でも、その聖典は人間を宇宙の文脈のなかで捉えようとしますが、わたしたちはその物語の記録に、いままさに参加している途中でもあるのです。
この点をわたしはよく指摘します。なぜなら、もし宇宙に原動力と呼べるものや、あらゆるものの存在を可能にする媒体のようなものが存在すると信じるのなら、わたしたちの想像を超えるものの存在の可能性を捨てるわけにはいかないからです。たとえそれらが魚のような、ストロマトライト[編註:シアノバクテリアが形成するドーム状の堆積層]のような、あるいは人間のような姿をしていようと、それぞれ独自の文脈で愛され、生きることが許されているものの存在の可能性を。
── あなたは、人が火星に行こうとするのは避けられないことで、それが人間の本質だ、と語っています。しかし、地球上に飢えた子どもたちがいる現状で火星へなど行っている場合ではないと主張する人もいます。この点について、どうお考えですか?
コンラッド:あまり上手ではない喩えですが、どうして人はセックスに興味があるのか、という問いと似ている気がします。大きな視点から見れば、性行為は人間という種の存続を高める目的をもった生物学的な本能です。同じように、わたしたちが新しい場所を探索するのも本能です。どの生物も機会を見つけて脅威を避けるために、機会と脅威を探します。それが生物の仕組みなのです。
どれだけ自分たちのことを賢いと誇っても、人間も生物に過ぎません。人間は自らの行動を合理的に説明しようとします。おそらく、それが習性なのでしょう。探索も、そうした習性のひとつです。ですが、一度逆向きの質問もしてみるべきだと思います。もし、人間が探索欲やそれに必要な能力を失ったらどうなるのでしょうか? これは、人間の状態を診断する尺度になると言えます。
同じことが、科学だけでなく信仰にも当てはまるでしょう。もしわたしたちが人々に、調べるのをやめて信仰だけにしがみつけと言うのなら、それは人生のあらゆる探究や探求に欠かせない批判的思考を奪うことと同じです。食べ物に興味をもって新しい料理をつくってみることも、環境についてもっと多くを知るために勉強することも、すべて同じことなのです。
── 地球上で食べ物や医療が不足している子どもたちの世話に関してはどうでしょうか? その気持ちも、本能と同じぐらい強力なものではないでしょうか?
コンラッド:わたしに言わせれば、それも本能です。わたしはこれまでずっと、人は科学的資産と技術的資産をどう配分すべきかを考えてきました。アメリカ人がよく理解できていないと思える謎のひとつが、新兵器などの開発に投じられる費用に対する純粋科学と応用科学に投じられる資金の割合です。
ポートフォリオ全体を見るとき、コストとメリットの関係を理解しなければなりません。わたしたちは科学における個別の試みを取り上げて、どれだけの費用が必要かなどと問いながら、他のことは考えから締め出してしまうことがあります。しかし実際には、わたしたちは次の厳しい問いにも答えなければなりません。この国の全ての人を養う技術すらないのに、なぜ他の惑星へ行くための技術を開発すべきなのだろうか? この問いに対する答えは、この国の全ての子どもたちを養う技術はすでに存在するが、そうする意志がない、でしょう。
── いま、数人の億万長者が宇宙へ飛び立とうとしています。あなたは本能としての好奇心や発見欲に言及しましたが、人には一番乗りをして誰よりも先に山頂に旗を立てたいという欲求も備わっていると思えます。人々が宇宙旅行を億万長者の競争とみなしていることについては、どうお考えでしょうか?
コンラッド:生物が機会と脅威を理解しようと試みるとき、ある生物にとっての機会は、他の生物にとっては脅威であるという点を忘れてはなりません。確かに、人は山頂に自分の旗を立てようとしますが、探索と冒険は同じではありません。探索は機会を求め脅威を避ける本能ですが、その一方で、人はスリルを求める生き物でもあります。このふたつは同時に存在したとしても、違いがあります。
実際、これは権力の問題で、同時に生物学的な問題でもあるのです。他の生物にとって不足であっても、わたしたち人間が豊かであればそれで問題ないと考えられています。だから、億万長者がお金を使って宇宙に行くのも、最大の権力を維持するための行為なのです。
進化にはさまざまな動機があります。しかし、進化の結果が、他の生物にいい結果をもたらさないとは限りません。途方もない財力をもつ例外的な人物が火星に行こうと決心すると、火星が重要な目的地だというわけではなくても、残りの人類も火星を調査できるほどにまで技術力を押し上げることになるのです。
── あなたは聖霊を信じていますか? 火星に聖霊がいるかどうか、どうすれば知ることができるのでしょうか? どうやって、聖霊を見つけるのでしょう?
コンラッド:わたしは聖霊の存在を信じています。わたしがどうして神の三位一体の考え方が好きかというと、光はエネルギーの塊であり、波でもあり、粒子でもあるという事実が気に入っているからです。同時にふたつのものとして存在できることを示す科学的な前例がすでにあるのです。聖霊を信じるのは、わたしに統一的なシステムの中に生きているという実感があるから。それこそが、システムのなかで生きることに特徴なのかもしれません。
しかしわたしは、宇宙のその他の構造、たとえば暗黒エネルギーやダークマターを信じているのと同じぐらい強く、そのような説明のつかないエネルギーを「神」と呼ぶか「宇宙マイクロ波背景放射」と呼ぶかは重要ではないと考えています。自分を全体の一部と感じることにとって、神とは、あるいは霊とは何かを正しく知ることは重要ではないと思います。
神が万物を創造したのなら、宇宙(ユニヴァース)や多元宇宙(マルチヴァース)の全体が神の媒体の内側に存在していることになると、わたしは考えます。それが何であるかを知るために、神を理解しなければならないのでしょうか? そんなことはありません。科学的な手法と神学的な洞察を用いながら、自分の手に負える何かにエネルギーを集中させればいいのです。わたしは火星に聖霊がいると信じているか? もちろんです。神は偉大で何よりも大きいと言うのなら、神を箱に押し込める理由などないですよね?
火星で何が見つかるかはわかりません。科学的な意味でも、わたしたちに何が見えるか、何を観察できるかは、センサーをどれだけうまく設計したかによって左右されるからです。もし、人間にスピリチュアルな欲求やつながり──それを何と呼ぶかはあなた次第ですが──を検知する感覚が生まれつき備わっているなら、それはスピリチュアルなセンサーなのです。そのようなセンサーを、技術を用いてつくることは可能でしょうか? わたしには見当もつきません。
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2021-08-07 09:00:00Z
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