2019年6月、NASAは土星の衛星タイタンを飛行探査する「ドラゴンフライ」計画を選定した。もう一案の彗星サンプルリターンミッションCAESARと最終候補2案の選定から2年間をかけ、科学的成果やミッションの実現性が審査された結果の選定だ。開発費の総額8億5000万ドル(約920億円)という大型探査を勝ち取ったのは、ジョンズ・ホプキンス大学応用物理学研究所(APL)だ。
これまで冥王星とカイパーベルト天体探査機ニュー・ホライズンズ、水星探査機メッセンジャー、太陽探査機パーカー・ソーラー・プローブの実績を持つAPLだが、宇宙探査の歴史は科学者間の激しい競争と政治的駆け引きの舞台でもある。NASAの中核であるジェット推進研究所(JPL)を制して、2001年にニュー・ホライズンズ計画をAPLが勝ち取った際に何があったのか。計画の主任研究員(PI)で、現在はアメリカ惑星科学会の大スターでもあるアラン・スターン博士の著書『Chasing New Horizons: Inside the Epic First Mission to Pluto』から、宇宙科学の舞台裏をうかがってみよう。
秘密結社から、NASAのトッププライオリティへ
アラン・スターンは、世界初の人工衛星スプートニク1号が打ち上げられた1957年生まれ。アポロ計画を始め宇宙探査に憧れ、中でも無人の惑星探査に惹かれて、ボイジャー計画でも訪れていなかった冥王星を生涯の目標と定めて研究を開始した。
1989年、コロラド大学で天体物理学の博士号を取得したアランは、「冥王星結社」と呼ばれていた研究仲間と「ボイジャーが成功した今、なぜ冥王星をターゲットにして太陽系の惑星をすべて探査しないのか?」NASAを相手にブチ上げる。驚いたことにNASAは「ならば、探査計画を作ってほしい」と依頼してきた。
アランたちは、「Pluto 350(プルート350)」という探査計画を作成する。探査機の正味の重量は350キログラム。土星探査機カッシーニ・ホイヘンスや木星探査機ガリレオといった当時の大型探査機よりは小型だが、十分な観測機器を備え、木星よりも遠い冥王星を短期間で探査できる設計だった。
1990年代に入って、プルート350計画はNASAで評価され、太陽系探査小委員会とさらに上級の諮問委員会にかけられることになる。太陽系探査小委員会のトップ、ウェス・ハントレスはNASAのジェット推進研究所(JPL)で経験を積んだ人物で、「冥王星はNASAのトッププライオリティにふさわしい」と推薦してくれた。
当時は、冥王星を探査するしかない! という機運が高まっていった時期だった。70年代には、メタンの大気を持っていること、「カロン」という衛星を持ち、太陽系の惑星で初めて二重星(連星)であることがわかった。80年代には、海王星よりも遠い領域に「惑星の材料」といわれる小さな天体が多い「(エッジワース・)カイパーベルト」が広がっており、冥王星はその代表かもしれないと考えられ始めた。90年代に入ると、理論上の存在だったカイパーベルト天体が次々と見つかりはじめた。
※現在、冥王星は「惑星」の分類から外れて準惑星となっている。
探査の機運が盛り上がったのはよいが、計画はアランたちの構想を超えて膨らみ始める。小委員会は、「探査機の重量を10倍にしよう」と言い出した。1960年代に金星、火星、水星を探査して大活躍したJPLのマリナー号の名前を取って「マリナー・マークII」という探査機を作り、これで冥王星へ行こうというのだ。マリナー・マークIIは、本体が2トンを超える土星探査機カッシーニをベースとしていて、必然的に超大型。費用は20億ドルもかかる。クリスマスツリーのようにあれもこれも盛り込まれたプランを、アランは「こんな屋形船はいらない」と内心嫌っていた。
そんなとき、ジョージ・W・ブッシュ大統領の指名でNASAに新任のダン・ゴールディン長官が就任する。ゴールディン長官の有名なスローガンは「ファスター、ベター、チーパー」という。より早く、より良く、そしてより安くの理念のもと、リスクを取ってでも宇宙探査の予算を節約せよ、と言いはじめた。早速、冥王星探査をより早く安くしようというプランをJPLのエンジニアが考え出した。
ジェット推進研究所とは、カリフォルニア工科大学の航空宇宙研究グループに母体を持つ研究所だ。NASA設立時からの中核研究拠点で、アメリカ初の人工衛星エクスプローラー1号、ボイジャー探査機、バイキング火星探査機、火星ローバー「キュリオシティ」などを成功させ、数々の傑作宇宙探査機を生み出している。経験を積んだ科学者、エンジニアが多く所属している。
JPLの若きエンジニア、ステーシー・ワインスタインとロブ・スターレは、重量わずか35キログラムという冥王星探査機「プルート・ファスト・フライバイ」を考案した。小さな探査機で余ったロケットの能力を目いっぱい加速に使い、冥王星までの旅を短く早くする。ロブは、アカデミー賞の授賞式に出席するためロサンゼルスを訪れていたゴールディン長官へ、画期的な探査プランだとプルート・ファスト・フライバイのアイディアを直接売り込んだ。
トップへの直訴が功を奏して、ゴールディン長官はプルート・ファスト・フライバイ案を気に入る。だが、実際に探査機を設計してみると、35キログラムどころか重量は164キログラムに膨らんだ。観測機器は2つしか積めず、コスト見積もりは当初の4億ドルから2.5倍の10億ドルになった。長官は失望し、冥王星ミッションは続けるものの、アランたちも含めNASA本部の直属組織で監督すると言いはじめた。さらにまずいことに、1993年には火星探査機マーズ・オブザーバーがミッションに失敗して消失する。1994年にNASAの惑星探査予算を増額しない方針が出され、コストの成約はどんどんきつくなっていった。
ローグ・サイエンティスト、モスクワへ行く
アランは、ソ連崩壊から間もないロシアを巻き込もうという奇策を考え出す。ソ連時代に培った探査機開発の経験と大型ロケット、プロトンを使い、アメリカのロケットより低コストで冥王星探査機を打ち上げようというのだ。独断でモスクワを訪問したアランは「ローグ・サイエンティスト」とまで呼ばれたが、前例のないロシアとのコラボレーションにNASA本部も内心は乗り気だった。
だが、法律の壁が厚かった。NASAのような国立の機関はロシアから直接ロケットを購入できないため、ドイツなど第三国を介さなくてはならず、想定よりもコストが膨らむ。また、太陽電池パネルが使えない冥王星探査には、エネルギー源として原子力電池が欠かせない。米国製の原子力電池をロシアのロケットに搭載することは、国防総省の許可が下りないとわかった。
1990年代後半、アランたちは少額の予算に歯噛みしながら冥王星探査のコンセプトスタディを続ける日々が続いた。ようやくカイパーベルト天体への関心の高まりととともに、冥王星とカイパーベルト天体探査という科学的目標を合わせ「プルート・カイパー・エクスプレス:PKE」コンセプトとして実現しようという案が立ち上がる。
NASAは、PKE探査機に搭載する観測機器のコンペティションを開催することになった。機器を提案するチームは全米の研究機関と大学からなる混成チームで、そのリーダーは冥王星探査計画のPI(主任研究員)となる。実質的に冥王星探査の選抜コンペだ。ここで負けたら冥王星探査の主流には入れない。
冥王星結社からの仲間と共に、アランはチームを結成し1年半かけてプロポーザル(提案書)の作成を進めた。対抗チームには、ボイジャー計画以来のベテランとアメリカ地質調査所(USGS)の科学者、エンジニアが揃った強力なチームがいる。アランは、惑星地質学の父といわれるUSGSの伝説的エンジニア、ユージーン・シューメイカー博士に協力を仰いだ。当時シューメイカー博士は69歳で、実際の探査が実現する15年、20年後には90歳近くになる。それでもシューメイカー博士は「こんな面白いもの、見過ごせるか!」と協力してくれた。
冥王星ミッションを救え!
悲しいことにシューメイカー博士は地質学の調査中に69歳で事故のため亡くなった。だが、その魂の入った、冥王星観測カメラのプロポーザルは2000年春に開催されたコンペで有力候補となった。内々に選定の知らせも届いた。にもかかわらず、冥王星探査に最大の危機が訪れる。NASAの太陽系探査小委員会のトップ、エド・ワイラーが「冥王星探査計画をすべて中止し、2020年代まで一切の検討もしない」と決定したというのだ。
この背景にあったのが、またもやJPLだった。ワイラーは、PKE探査機の予算を全体で7億ドルまでと考えていた。2000年当時の金額で約740億円だ。そこでJPLに予算の見積もりを依頼したところ、2倍以上の15億ドル(約1600億円)かかるという。あまりの予算超過に、NASAトップは冥王星探査計画に及び腰になってしまったのだ。
アランをはじめ、冥王星の研究者たちは激怒し、そして絶対に諦めなかった。これまで培ってきた研究を無にさせたりはしない。研究者たちは全米のメディアに公開書簡を送り、「JPLの見積もりが高額すぎたという理由ですべてを投げ出すのは不当だ」と訴えた。カール・セーガン博士が設立した惑星科学団体、惑星協会はNASAに探査中止の撤回を求める意見書送付キャンペーンを展開。1万通を超える怒りの手紙が届いた。17歳の高校生が独自に「冥王星ミッションを救え!」というWebサイトを立ち上げメディアの注目を集めるなど、冥王星探査支持の世論が激しく盛り上がった。
しかも、期限が迫っている。地球から45億キロメートル以上離れた冥王星に到達するには、木星の重力を利用して探査機を加速する木星スイングバイが欠かせない。軌道の関係で、木星スイングバイを行うには、2002年から2006年の間に探査機を打ち上げる必要があった。
NASAはあらゆる方面から批判され、ついに考えを変えた。2020年11月、太陽系探査小委員会のトップがある研究所を訪れる。ジョンズ・ホプキンス大学応用物理学研究所(APL)は、宇宙線の専門家トム・クリミジス博士を擁する高度な研究所だ。クリミジスは、JPLが冥王星探査は高額の費用がかかる、と説明する根拠に疑問をいだいていた。木星を通過する際、強い放射線から探査機を守るために機器に分厚いシールドを必要とするため、大きく重く高コストになってしまうという。だがクリミジスは、「冥王星探査機はボイジャーよりはるかに速く木星を通過するのに、何でこんなにガッチリ覆わなくてはならないんだ。バカげている」と考えていた。
この考えが正しければ、冥王星探査機はJPLの見積もり15億ドルの3分の1で実現できる。当時、APLはまだ大型惑星探査を実施したことはなかったが、小惑星エロスの探査を行ったNEARという実績がある。しかもスケジュールを前倒しで実施し、3000万ドルも節約することができた。クリミジスは秘密裏にわずか10日間のプロトタイプデザインとコスト計画のスタディを立ち上げた。2000年11月末にできあがったのが、後にニュー・ホライズンズとなるコンセプトだ。土星探査機カッシーニの予備部品だったプルトニウム原子力電池を使い、木星フライバイの期間中に打ち上げられる。全コストは5億ドル以下になる。
2000年12月、アランのところに、NASAが冥王星計画を再開するという知らせが届く。計画主導チームを一新し、APLとJPLをはじめ複数のプロポーザルを競わせるという。90年代からの長い戦いで「ミスター冥王星」として知られていたアランのところには、APLとJPL両方から「リーダーとして迎えたい」という要請があった。アランは、APLの経験が少ないことは気になったものの、JPLのやり方ではコストとスケジュールを守れないとも考えていた。
「投げ出さない。約束するよ」
アランは、APLとJPLのトップそれぞれに「冥王星探査計画を実施するとしたら、自分が唯一のPIなのか。また計画を投げ出さないと約束できるか」と質問した。JPL側の返答は言い訳に終始したが、APLのクリミジスの回答はシンプルだった。「君は唯一人のPIだし、私たちが勝ったら計画は投げ出さない。約束するよ」これで決まった。当時、NASAの中枢であるJPLよりAPLははるかに規模が小さく、政治的な立場も弱かった。しかも、JPLの誘いを蹴った上にJPL案が採択されたら、アラン・スターンの惑星科学者としてのキャリアは終わる。
それでも、アランはAPIを選び、NEARを始めとするAPLの計画で活躍したベテラン、冥王星結社のメンバーと共にプロジェクトチームを結成した。不眠不休で働き、電話帳のように分厚いプロポーザルが完成した。ミッション名も決めなくてはならない。冥王星のP、探査のEなどを含む提案が多かったが、アランは頭文字略語にこだわるのをやめ、意味を持つ名前にしようと考えた。「冥王星を発見したクライド・トンボーの『惑星X』にちなんで『X』はどうだろう。『ニュー・フロンティアーズ』や、アポロ11号にちなんで『ワン・ジャイアント・リープ』は?」迷っている中、ロッキー山脈の地平線を見てアランは「ニュー・ホライズンズ」と決めた。
コストを抑えてミッションを安全に進めるため、木星から冥王星への飛行中に機器を冬眠状態にするプランも決まった。NASAでは初の試みだ。通信性能を抑えてアンテナを小さくする代わりに、観測データを探査機に蓄えて時間をかけて送信することも、コスト削減案として採用した。機器をすべて二重にする冗長化を行わない代わりに、観測機器が複数で相互に機能を補完するように設計し、どれかが壊れても他の機器が観測を引き継げるようにした。
審査は2001年4月に始まり、全5チームが参加した。ニュー・ホライズンズチームは、2組のファイナリストの一方に選ばれた。もう一方はやはりJPLだ。探査機開発にロッキード・マーティンが参加したPOSSEは、ニュー・ホライズンズ同様にコスト削減のため通信性能を落としていたが、飛行期間が長く、11もの観測機器を積んでクリスマスツリー化しつつあった。
2001年10月の最終口頭発表を経て、11月末にアメリカ天文学会の惑星科学部会総会に出席していたアランのもとに、NASAから電話がかかってくる。「おめでとう。ニュー・ホライズンズは冥王星探査ミッションに決定した」アランはPCに駆け寄ってチームにメッセージを送り、それから同じ学会に参加中のトム・クリミジスに知らせた。トムはアランをハグして、それから2人は学会のカンファレンスホールで喜びの踊りをおどったという。
この後も、開発段階の苦闘は続き、NASA側からコストとスケジュールに関する厳しい制約が課された。だが、ニュー・ホライズンズは木星フライバイの期限である2006年に無事打ち上げられ、9年間の飛行期間を「冬眠」して放射線の影響を抑え、2015年に無事に冥王星に到着し探査を成功させた。2019年1月には、第2の目標であるカイパーベルト天体「ウルティマ・トゥーレ」を探査し、撮りためた観測データを今もじっくり地球へと送信している。
ニュー・ホライズンズ探査機の重量は、推進剤を除いた本体が388キログラム。多くの政治的駆け引きを勝ち抜いて、大きすぎも小さすぎもしない「プルート350」のコンセプトを守り抜いた結果が最終的な成功につながった。
https://news.yahoo.co.jp/byline/akiyamaayano/20190701-00132448/
2019-07-01 09:00:00Z
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